ところざわ倶楽部            活動報告    野老澤の歴史をたのしむ会


「武州世直し一揆」講義


2017- 3-1    記 小倉 洋一


 ■実施日:2017-2-25(土) ■参加者:33名 ■場所:中央公民館 

 講師:木村立彦氏


 江戸末期の慶応2年(18666月、上名栗村を中心に発生した「武州世直し一揆」から150年、その時代の

農民の生活と一揆の背景を、木村立彦氏に講師をお願いして学びました。


 尚、郷土史愛好家の「武州世直し一揆の会」11名の皆様にもご参加いただきました。


    


 慶応2年(1866613日から19日までの1週間にわたり、武州15郡、上州2郡の広域において、のべ10

数万人の農民が同時多発的に蜂起した一揆で、豪商農、組合村役人、村役人ら、判明するだけで家数500数十軒

余を破壊した大規模な農民闘争が武州世直し一揆と呼ばれる。所沢では15軒以上の商家が被害を受けたばかりで

なく、北の畑には約3万人が野宿し、翌日四方に展開した。



 この一揆がそれまでの多くの一揆と異なる点は、「世直し」の幟や「諸国太平」と記した高張提灯を押し立てて

練り歩き、富の偏在を均して平均化することといった経済的要求をかかげたことにある。


 打ちこわしの対象者は、高利貸、質屋、横浜商人、生糸商、穀屋、酒造、富農、大総代、村役人等で、一揆勢の

要求内容は、質物無償変換、小作金・借金棒引き、物価引下げ要求、米金施行要求などで、それを承諾した豪農、

在方商人、村役人らから請書をとった場合、彼らは打ちこわさないことを原則としていた。


 一揆のリーダーと考えられる上名栗村の紋次郎は農業の傍ら宮大工であり、豊五郎も農業の傍ら桶職と豪農の年

季奉公人として給金を得るいずれも貧農であった。彼らの様な貧農層が当時の社会を支えていた現実がある一方で

階層の分化が進行して「富の偏在」が生まれた。さらに世情の騒々しい時代となり歴史の転換点を迎え一揆は起こ

された。


 一揆勢に対して、幕府や藩も鎮圧に乗り出し、多摩郡では江川配下の役人が農兵隊を指揮して交戦。

農民(農兵)による農民(一揆勢)の鎮圧がこの一揆勢の特徴でもあった。


 多くの犠牲や損害を出しながら民衆が精いっぱいの抵抗を表したこの一揆は、幕藩体制や社会に大きな影響を与

えた。


                                担当:佐藤八郎・小倉洋一



追記:中央公民館での講義のあと、所沢で「武州世直し一揆」の襲撃を受けた齋藤家(明治天皇行在所跡の住居)

で当主の斎藤様より襲撃の様子をお伺いし、襲撃による数か所の柱の傷跡を確認させて頂きました。