■実施日:2017年10月5日(木) ■参加者:21名(他サークル7名を含む)
■場 所:高麗神社集会室
八高線高麗川駅に集合したのは会員14人、他サークル7人の21人です。前日の中秋の名月は生憎の曇空でしたが、本
日は好天に恵まれました。
駅頭で他サークルの紹介を行い、秋の花満開の高麗の里を楽しみながら高麗神社に向かいました。
神社内を各自散策の後、11時より第60代高麗文康宮司の説明を受けました。聞くところに依れば、今日の為にわざわ
ざ資料を作成して頂いたとの事恐縮するばかりです。
■宮司の説明:
中世高麗氏26代宗純は平氏と縁を持ったが、27代豊純の代になり「若光」以来大事にしてきた血縁に源家の女を室に
入れる決断をし、新しい時代に入った。以来、鎌倉幕府の有力な支持者になり、得宗家の御内人として仕えている。
30代行仙の時代鎌倉幕府は、新田義貞軍に攻められ滅亡するが正慶2(1333)年、三郎行持、四郎行勝の弟二人が東
勝寺にて討死をしている。32代行高は建武4(1337)年頃から一族挙げて南朝方に味方し、北畠顕家や新田義興軍に
属し関東各地で戦いの明け暮れた生活を送っている。
しかしながら文和3(1354)年、軍に利なく、左衛門介高廣、兵庫介則長の弟2人が討ち死をする。ここで行高は、家の
存続を第一とし投降する。
その後、高麗家は行高の遺言「死に臨みて遺言我が家は修験なり、以後子孫代々何事があるといえども、必ず武士の行
いなすなかれ。軍はいたさざるものなり。堅く戒め率す」を守り修験道に努め、家系の存続を第一としたのである。
江戸時代の朱印地は三石であり、明治維新後は復飾して神主となり、5代を重ねている。(当日配布資料より)
直近に、天皇、皇后両陛下が私的旅行で立ち寄った際に、本来高麗神社にあるべき大般若波羅密多経15帖が宮内庁に
保存されているとの会話があったと披露されました。
1時間の講座の後の質問で、他サークルより参加のSさんが45代良海の分家筋の末裔とのことで質問も詳しく、参加者
を驚かせました。
昼食後は各人各様に秋真っ盛りの高麗郷を散策し、家路につきました。
担当:佐藤 八郎・大山 豊
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