ところざわ倶楽部            活動報告    野老澤の歴史をたのしむ会


歴史講座「中世高麗氏の動向」


2017-10-09    記 佐藤 八郎

 

■実施日:2017105日(木)  ■参加者:21名(他サークル7名を含む)

■場 所:高麗神社集会室


 八高線高麗川駅に集合したのは会員14人、他サークル7人の21人です。前日の中秋の名月は生憎の曇空でしたが、本

日は好天に恵まれました。


 駅頭で他サークルの紹介を行い、秋の花満開の高麗の里を楽しみながら高麗神社に向かいました。


 神社内を各自散策の後、11時より第60代高麗文康宮司の説明を受けました。聞くところに依れば、今日の為にわざわ

ざ資料を作成して頂いたとの事恐縮するばかりです。



■宮司の説明:

 中世高麗氏26代宗純は平氏と縁を持ったが、27代豊純の代になり「若光」以来大事にしてきた血縁に源家の女を室に

入れる決断をし、新しい時代に入った。以来、鎌倉幕府の有力な支持者になり、得宗家の御内人として仕えている。

 30代行仙の時代鎌倉幕府は、新田義貞軍に攻められ滅亡するが正慶2(1333)年、三郎行持、四郎行勝の弟二人が東

勝寺にて討死をしている。32代行高は建武41337)年頃から一族挙げて南朝方に味方し、北畠顕家や新田義興軍に

属し関東各地で戦いの明け暮れた生活を送っている。

 しかしながら文和3(1354)年、軍に利なく、左衛門介高廣、兵庫介則長の弟2人が討ち死をする。ここで行高は、家の

存続を第一とし投降する。


 その後、高麗家は行高の遺言「死に臨みて遺言我が家は修験なり、以後子孫代々何事があるといえども、必ず武士の行

いなすなかれ。軍はいたさざるものなり。堅く戒め率す」を守り修験道に努め、家系の存続を第一としたのである。

 江戸時代の朱印地は三石であり、明治維新後は復飾して神主となり、5代を重ねている。(当日配布資料より)


 直近に、天皇、皇后両陛下が私的旅行で立ち寄った際に、本来高麗神社にあるべき大般若波羅密多経15帖が宮内庁に

保存されているとの会話があったと披露されました。



   



 1時間の講座の後の質問で、他サークルより参加のSさんが45代良海の分家筋の末裔とのことで質問も詳しく、参加者

を驚かせました。


 昼食後は各人各様に秋真っ盛りの高麗郷を散策し、家路につきました。




                                                       担当:佐藤 八郎・大山 豊