ところざわ倶楽部            活動報告    野老澤の歴史をたのしむ会


渡辺隆喜先生を囲む座談会・暑気払い

明治維新と長岡藩 -司馬遼太郎「峠」の世界-


2016-08-08    記 小川 雅愛

 ■実施日:2016年8月4日(木)  ■参加者:22名  ■場所:新所沢公民館   



 遅い梅雨明け後、焼けつくような暑さのなか、恒例となった標記の活動を実施しました。

 今年は幕末動乱期の越後長岡藩とその命運を左右した筆頭家老 河井継之助の対応などを歴史小説「峠」を題材に、様々

な統計資料も参照し、「人間とはなにか」、「長岡を主題としつつ戦後の歴史学の立場に立って戊辰戦争を描くとどうなる

のか」などについて教示いただきました。


 この講座に先立って渡辺先生は舞台となった長岡市の講演会で話された実績があり、その時の反響や現地の人々の感情

や思いを伝えられたほか、河井継之助記念館の展示物、ガトリング砲、長岡藩の旗など資料を示されたので、臨場感をもっ

て拝聴することができました。河井継之助については、現在もなお、様々な見方や評価があるようであり、考えるための格

好の材料を提供していただいた。

 また、参考文献として「復古記」(王政復古・戊辰戦争の進捗状況を時系列で詳細に記録)の北陸道戦記の部の記録も交

えて事実関係を示していただき、その中では同時日の所沢では人馬の徴発が行われたとか関連にも触れていただき、時代の

流れを実感することができました。


 ただ、講座は皆さんがこの小説を読んで、イメージができていることが前提でしたが、読んでいない方や読んでいても昔

に読んだ方にはレジュメのみでは多少、難しかったのではないかと思いました。多くの方がこの後、読んでみようとあらた

めて挑戦意欲が湧くのではないかと思います。

 講演会レジュメをよりどころに主に印象に残った事柄を報告します。


 はじめにおことわりとして、「文学」(時代小説)では性格上、しばしば主人公の人物像を過大評価、英雄視する場合も

あると指摘され、歴史ドラマの視聴の深入りをしない先生のお考えをお話しされました。

 毎日新聞雑記帳の記事(2006.8.24付)では、北陸戊辰戦争で争った長岡藩と土佐藩の現在の双方の市長が

138年ぶりに和解の方向との記事には大きなしこりが今まで続いたことを知り、驚きでした。



 
         


1.講座の三つの視座(比較・分析検討のために)

 1)小諸藩の百姓 : 先生のご出身地長野、長岡藩と同じ牧野家=佐幕派で比較研究対象。

 2)星 亨の世界 : 祖父は越後出身、明治政府の要人として活躍した人物。 

 3)明治法律学校 : のちの明治大学、明治14年~35年の学生数全国比較、新潟県と長野県が他県と比べ多い。新潟

           県は豪農・豪商が 多い。長野県は養蚕等が盛んで、農家に経済力があり、子弟の教育に関心が高

           いのが理由か。


2.越後路の明治維新

 1)越後の諸領 :

    明治初期の新潟県域の総石髙は127万石、文久年間、県内には12の藩とそれに薩長が敵とする会津藩領・桑名

    藩領、幕府直轄領等が入り組み、それがこの地域の対応をより複雑化したことが分かりました。その当時の総石高

    は105万石余、前記の石高との差は天領か。

 2)戊辰戦争の経過 :

  (1) 前記の通り「復古記」をみれば、刻々と変化の状況が良くわかるようです。

  (2) 明治10年の調査資料によると越後諸藩は例外なく借財を抱えている。特に渦中の長岡藩は石高収入の倍以上の借

    財を抱えていたことを指摘された。先生は戊辰戦争後、明治期の資本主義の萌芽は農村から発展していくと強調さ

    れた。

 3)戊辰戦争出征兵及び死傷者数

    (官軍と会津を中核とする軍と分けて死傷者数調査)によると、会津に次いで長岡藩の死傷者数が多く、また、長

    岡町の被害状況も小説で描かれたことがデータで示され、戦闘の激しさ、被害の大きさを感じました。

 4)戊辰戦争当時、越後から会津にかけて巡回治療した公使館医のウィリス(ア-ネスト・サトウの友人)の記録による

    と、「民衆は幕府より現政府の方がましだと語ったこと、大名の支配下にあった農民は政変に無関心であった」は

    封建体制の崩壊ということが感じられるレポ-トと思いました。


3.「峠」の世界(小説の内容を要約してご説明いただいた)

  以下は内容や主人公について注意や注目すべきと先生が指摘された箇所と事項の中から数点を紹介します。

 1)武士の教養は朱子学が主流である時代、継之助は陽明学に傾倒、それ自体は問題ではないが、それが最終的に藩の

   運命を決めてしまった。農民や藩の民衆とは離れていた。同じ陽明学を実践し、困窮民衆を救うために立ち上がっ

   た大塩平八郎(の乱)とは大きな違いがある。

 2)藩政改革の目的をスイス人ファブルブラントの「永世局外中立論」に倣い、「独立王国」としたことや数々の改革

   を行ったが、いずれも民衆や武士階級の支持が得られず、客観的には無理があった。ただし、藩主2代にわたって

   絶大に信頼をされ、120石の中流家柄から家老に昇りつめ、思うとおりに藩政を動かした。

 3)薩長嫌いのドイツ(プロシア)の武器商人スネルからガトリング砲2門と元込め銃を大量(2000挺といわれる

   )に購入、特にガトリング砲により、長岡藩の武力を10倍から15倍と錯覚、北越戊辰戦争では十分な威力は発

   揮されなかった。ガトリング砲が特に、方向を誤らすこととなったともいえると指摘された。

 4)福沢諭吉と会談のくだりがあるが、河井継之助は人民に関する考えが全く上から目線であり、福沢の考えは「蚤の

   ように小さい」と批判している。

 5)資本主義的生産も藩主導でやるとの考えかたは問題、藩主導では封建制が残るため、資本主義的生産も進展せず、

   近代には発展しない。

 6)北越戊辰戦争前、恭順派の旗頭を説得しきれず、権力的に「廃人」として意見を封じ込め。

 7)河井継之助の戦争意識で全藩玉砕=行動の目的は「美」のためということはどうか。


4. 評価の推移・ほか

 1)昭和38年代には“英雄も時と場所を誤ると「天災よりも恐ろしい」害をもたらす”との合理的批判が見られたが

   、昭和43年高度成長期にさしかかると、時代を反映し、「武士道倫理の美」が強調された。時代により、見方はか

   わることがあるようです。

 2)先生が長岡で講演された際、事後アンケートで講演参加の方々の反応をいただいたところ、先生の見方に8割がた

   は賛成いただいたとのことです。地元では強く河井継之助を支持される方も多いとのことです。

 3)ドイツ人スネル(前記)はついには会津戦争で白虎隊と行動を共にし、藩滅亡後、アメリカに亡命、シェラネバダ山

   脈中に会津コロニ-(現地で呼称)を建設したと後日談を披露していただきました。また、山本五十六が長岡藩に深

   く関係する人であること。長岡藩「米百表」は先ず窮乏の民衆を助けるべきか等々、講座では歴史学の立場からの様

   々な見方考え方、時代により一定評価ではないことなどを学ぶことができました。



  講座の後は、17名の参加者が集い、暑い夏を乗り切れるよう和風レストラン「天狗」で先生を囲んで、和やかな座談

  会を行い本日の締めくくりをしました。