ところざわ倶楽部            活動報告     野老澤の歴史をたのしむ会


22期生所沢地域史グループワーク    

所沢地域の教育史 ~寺子屋と文化人に学ぶ~


2016 2 -9    記 安田 好子


■実施日:2016-2-4()   ■参加者:21名  ■場所:中央公民館12号室 

■発表者:粕谷 眞 上村 恭代

    

1.庶民教育の発展背景

川越藩主の柳沢吉保は藩政の安定のため上富、中富、下富の開発を元禄7年から開始した。その後8代将軍徳川吉宗が、

年貢の増収を図るため武蔵野19カ村にわたる大規模な新田開発を享保8年から実施した。これらによって所沢地域の農業

生産基盤が整備され農産品の生産が増加し、宿場(町場)を形成しつつあった所沢地域では、「市」が寛永16年から開か

れるようになり、3と8の付く日に月6回開かれる六斎市に発展していった。幕末期には所沢地域で養蚕、木綿織物、製茶

などが発達し、金銭収入も増加して小規模農家の子女も読み書き、そろばん、教養の習得の必要性が高まってきた。

 

2.所沢地域の寺子屋から学校へ

寺子屋は享保期以降各地で起こったが、寛政の改革を経て急増した。これは関東地回り経済が背景にあった。県の寺子屋

数は、ペリー来航の安政期に爆発的に増加した。

  
 所沢市の寺子屋は地域別にみると三ヶ島地区、山口地区、柳瀬地区が多く、さらに旧村別では三ヶ島、北野、久米などが

多い。これらの村は狭山丘陵内にあり、谷戸田の稲作と台地上の畑作が複合して行われた地域に多くありました。多様な生

産活動(農間 余業)から正業に必要な知識を得るために庶民教育が不可欠となった。

  

 埼玉県の寺子屋一覧表によると農民出身の澤田泉山が多くの寺子を教育し、特に女子数が多いことと、その比率が高いこ

とが注目される。

 

3.北広堂とその周辺

 泉山は文政6年(1823)入間郡北入曾村(現狭山市)本橋吉右衛門の次男、新五郎正勝と称し、24歳で北野広谷の

澤田家娘(うめ)養子縁組をした。養子に来る前は天保3年(1832)9歳で郷土の常泉寺の住職釈亮賢に漢学を学び、

その後埼玉県児玉町出身の盲目の国学者で有名な
保己一の高弟田口正明に和学を学び、後に詩と漢文を大沼某に学んだ。

天保12年(1841)宮野助左衛門に数学を学び和算の開閉(平方根)・開立(代数式の立方根)・天元(高次方程式)

、点ざん(高等数学)を研究して、澤田家に来るまで郷土の子供たちに教えていた。また弘化3年(1846)から安政2

年(1855)まで北入曾村の関口玄益に付き、医学を習得した。幅広い学習意欲は驚異的なものであった。澤田家を継い

だ直後より、農業の傍ら医学を志したが、近隣から教えを願う者がおおくなり、医学の道は断念し、寺子屋を開いたと言わ

れている。開設当初は男2名、女1名で始まり年々入門者が多くなり元治・慶応年間(1864~1868)には40名~

60名以上となり、出身村落も入間郡、多摩郡、高麗群、江戸、川越、青梅、八王子等々に拡大した。明治5~明治7年間

は学制交付の関係からか平均100名強の入学者がいた。

 

4.学制以降の北広堂

 新政府は明治5年に封建制の下の学問は観念的な文章の暗唱や空理空論に満ちていたと評価し、西欧の個人主義・功利主

義を学び「学問は身を立てるもとである」と説き国民を平等に小学校で学ばせる原則を打ち出した。狭山学校は北広堂の校

舎など継承し、泉山の私学的要素として明治6年に開校した泉山は狭山小学校の教員となり明治19年迄校長として勤務し

た。その後狭山小学校を退き、明治20年に私立学校大倫館の設置を埼玉県知事に提出したが発足しなかった。


 その頃小手指村では小学校に高等科の設置問題が起こり、明治25年泉山の寺子屋であった北広堂の建物と敷地を借用し

て、明治高等小学校が開設した。


 泉山が創立した寺子屋北広堂が狭山小学校として進展した明治10年代は近代日本における黎明期であった。


 新政府の教育政策は和漢学から西欧の洋学へ展望を求めていた。また教育令の改正やその後の町村制の施行などは寺子屋

系を基盤とする小学校を衰退させ、行政管理下に置く一村単位の小学校に移行するなど新政策は狭山小学校から小手指小学

校へと変移していった。

 

5.澤田泉山の交友関係

●泉山の書画

泉山は寺子屋の師匠以外に書を極めた人である。万延元年(1860)に京都の青蓮院宮の書流に属し、関東入木道とい

う流派の名手となった。元治2年(1865)に嵯峨御所江戸表御役所より「北広堂」の号を許され、免許を取得した。更

に工夫し、泉山流なる書風を創った。北広堂という名称は青蓮院宮家から許された書道の塾名である。

 

●全徳寺13世雲渓和尚

北野村で寺子屋の師匠として活躍した人物に全徳寺の画僧雲渓がいる。天保元年(1830)生まれで、山口の粕谷家の

出身。8歳で全徳寺に入門し、京都興聖寺で数学を修め、山口の来迎寺などの住職を経て、28歳で全徳寺13世になって

いる。その後、村内の子弟に書、学問を教授し、門弟数十人を数え、北野村や三ヶ島村の発展に尽くした。寺子屋の師匠の

傍ら画の修行に励み、墨梅図が最も得意な分野で新政府が主導した第1回、第2回の内国勧業博覧会に出展し、連続優賞し

た。全徳寺は明治13年(1880)火事により詳しい資料は残っていない。

 

●北野天神社大宮司栗原茂景

文化人として北野天神社の大宮司栗原茂景がいる。茂景は寛政11年(1799)大宮氷川神社西角井家の次男として生

まれ、22歳で北野神社大宮司を継承し、若くして清水浜臣に和、国学を学んだ。浜臣は国学者として著名な加茂真淵の孫

弟子である。茂景は和歌を研鑽し、国学,和歌の著作を多く残している。江戸の文化人、歌人と幅広い交流で、歌人として

も名声を得た。澤田泉山も和歌の門人の一人です。


 本職以外に文化、芸術家であった3人の交流時期は安政年間(1850)~明治後半(1900)と推察出来る。3人の

和歌、書、画が持てはやされ、文化サロンを開花させ、多くの門弟が北野村に集まるようになった。お互いに交流を深め、

北野村に「サロン・ド・キタノ」と称するべき名声を得、近隣一帯に影響を及ぼし、教育・文化・芸術へのカルチャーショ

ックを起こした。当時、文化人、画家、書家が各地で文化の普及、浸透に大きな役割を果たした。またそれを受け入れる村

民の経済力が飛躍的に成長した時期でもあった。

 

6.北広堂で学んだ著名人

●粕谷義三

北広堂で学んだ門弟で、後に衆議院議長になった粕谷義三がいる。父親の佐久間要作は三ヶ島村林の出身。上藤沢村(現

入間市)の名主橋本家へ婿養子に迎えられ、橋本要作となり、慶応2年(1866)長男として生まれたのが義三。義三9

歳にして泉山の内弟子となり、その後ミシガン大学に留学し、明治24年(1891)豊岡町の旧家、粕谷家のたっての懇

願で25歳の時に婿養子で迎えられ粕谷義三となる。県会議員、衆議院議員を経て大正12年衆議院議長に就任、昭和5年

65歳で死去。

 

●向山芳三郎・向山忠次郎

織物買継商の向山小平次の子息芳三郎(12歳)と忠次郎(9歳)が学んでいる。芳三郎は向山小平次を継ぎ、所沢絣を

全国的に有名にし、久留米絣、伊予絣と並ぶ織物にした。また所沢飛行場誘致活動や所沢銀行初代頭取、飯能銀行初代会長

となり、織物のみならず埼玉の銀行の歴史にも大きく関わった。忠次郎は自由民権運動家で明治15年10月に所沢町の有

志で自由党系の政談演説会の幹事として名を連ねている。泉山の才能と独創性のある教授は広く宣伝され、多くの筆子を擁

した。

 

発表内容の要約であるが、長くなってしまった。市民大学の発表では25分におさえられ慌ただしかったが、野老澤の歴

史をたのしむ会では2時間の発表である。質疑応答の時間をとったので俄か勉強をしたが、役にたたなかった。発表者の粕

谷さんが所沢生まれの所沢育ち、御祖母ちゃんの話をしたので明治時代の所沢の風景が想像でき、新鮮な気持ちで聞けた。


    

左から 上村・安田・粕谷