ところざわ倶楽部            活動報告     野老澤の歴史をたのしむ会


「江戸期の所沢市域の領主と支配」講座


2016 2 -24    記 小倉 洋一


■実施日:2016-2-13(土)   ■参加者:20名  ■場所:中央公民館 


 所沢の歴史をたのしむ会の歴史講座は、昨年、一昨年と「武藏夜話」の講師をお願いした木村立彦氏に、今回は「江戸時代

の所沢市域の領主と支配」について学びました。

天正18年(1590)関東を支配していた小田原北条氏が滅亡して徳川家康が新たな城主として関東に入国した。家康が最初に

着手したのが領内の支配体制の整備であった。つまり関東に従ってきた家臣団の地行割りであり、財政的基礎となる蔵入地(直

轄地)の設定であった。

近世における所沢市域の領主支配は旗本領(徳川氏の中下級家臣の地行地)と幕府領(蔵入地)が入り込む形態をとっていた(相給

村)。川越藩領としてはのちの三冨新田などが知られるが、ほんの一部にすぎなかった。


                          木村先生による講義


石高制について、「石高」とは、その土地の農業生産力を米の量に換算して表示したもので、田畑の租税負担能力を高で示し

租税の基準になるものである。所沢市域の領主支配高は、正保(1644-48)約6,400石 ~ 幕末期(1868年頃)約12,300石

になった、これは幕府等の新田開発によるものが大きい。


 近世初期の旗本は知行地とのかかわりが深く、各地でそのかかわりを示す痕跡が残されています。

所沢には江戸時代在住した旗本のお墓があります。主なお墓を下記に記述しました。その他にも多くの痕跡があります。是非

、所沢の歴史を探訪して見てください。
 

旗本久松氏の墓

上山口の清照寺には、久松定佳とその子定弘の墓石2基が並んで建っています。久松氏が武藏国入間郡山口に200石の知行地

をあたえられたのは、天正19年(1591年)定佳の父忠次の時です。以降、久松氏は幕末まで同地を知行しました。


旗本中根氏の墓

久米の長久寺にある「旗本中根氏の墓」は、中根正重の200回忌にあたる寛政9年(1797年)に子孫の中根正寧が再建したもの

です。

中根正重は、はじめ徳川家康の長男信義に仕えていましたが、信康の死後、家康に仕えて関東入国に供奉し久米村に200石の

地行地を与えられました。以降、天和2年中根正延の時に知行6千石となり、上級旗本として相応の職に就いた。中根氏の久米

200石知行は幕末まで続きます。



旗本宇佐美家・久貝氏の墓

山口の瑞岩寺には、宇佐美家の墓3基及び久貝家の墓6基と石灯籠1基が一列に並び、墓所入口の左右に常夜灯が2基建ってい

ます。宇佐美家の墓3基は、徳川氏の関東入国後、岩崎村を知行したといわれる宇佐美長元とその妻、及び宇佐美氏縁者の墓

です。岩崎村は、宇佐美氏の後に久貝正信が知行し、以降、久貝氏が幕末まで同地を知行しました。
 


旗本花井氏の墓

小手指の無量寺墓地にある「旗本花井氏の墓」は慶長8年(1603年)に北野村に300石の知行地を与えられた花井吉高の子、

花井庄五郎吉政の墓であり、墓の施主は、吉高の養子となり吉政に代わって江戸に仕えた花井庄右衛門吉久です。花井氏は幕

末まで北野村を知行しました。

 

    

                瑞岩寺山門                旗本宇佐美氏・久貝氏の墓(瑞岩寺)