○私は1981(昭和56)年5月から1984(昭和59)年3月までの約3年間、伊藤忠商事イラン支店長として勤務しました。
・それまでは同社原油部長として、中近東の諸国にはしょっちゅう出張していました・・・即ち、イラク・クウェイト・サウジアラビア・カタール・アブダビ・オマーンのアラブ産油諸国と、イラン・インドネシア等です(イランはアラブではありません。ペルシャです)。
・今ではそれぞれ潤沢なオイルマネーで、冷房はおろか絢爛豪華な建築物もありますが、当時はまだ冷房はあってもガラガラと音のするような古びた装置もあり、アラビアンナイトのようなさびれた町並みが多く残っていました。摂氏45度を超す日には、扇風機は体温より高い空気を肌に直射するのでなるべくじっとしている方が良いような状態でした。
・イラン革命は、1979年にアメリカ大使館を大衆が襲い、アメリカ人を全員追放してしまったのです。ホメイニ大僧正が亡命していたフランスから帰国されました。
・当時、イラン原油を買おうとすると、通産省から(対米配慮の一環として)「待った」をかけられていましたが、私たちは何とか理由をつけて細々と取引を続けていました。
・私の前任者の時代には、まさに革命勃発のあおりで、一時全員帰国もあり、また後任者の場合にはイラクとの戦争激化による空爆のためにトルコを通じて全員帰国という状態もありましたが(この辺の事情については門田隆将著「日本遥かなり」(PHP研究所)に詳しく述べられてあります)、私のいた1981~1984の3年間は未だテヘランへの空爆はなく対米的にもある程度落ち着いていて原油購入への制約もあまりありませんでした。家族呼び寄せも可能でした。
1983年 スサンゲルド(イラン/イラク戦争の激戦地)で、
ホメイニ大僧正がバグダッドを睨んでいた
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・当時のイランではイスラム経済の具体的な運営として、PDC
(Procurement and Distribution Center:調達/配分機構)が商品別にでき(例えば、繊維の購入についてはTPDC (Textile
PDC);鉄鋼金属に関してはPDC(MetalsPDC)など)、集中的に購入していました。
・そういうもろもろのPDCとNIOC(イラン石油公社)が協議会を作って、原油を買った会社から見返りに物を買うというやり方をしていましたので、私のように原油部出身の支店長がいる商社は圧倒的に有利でした。
・当時良く売れたものの中にはトヨタのランクル(ランドクルーザー)がありました。その後ヤナセの社長になった井出君がトヨタの専門家を連れて良く来ていました。その他繊維・鉄鋼製品・建設機械・化学品などいろいろなものが良く売れました。
イラクの戦車(戦利品)の上で |
○イランの風物:
・イランは国の面積は日本の約5.5倍ありますが、緯度的にはほゞ日本と同じです。沙漠も多いけれど緑滴る場所も多く、何しろ日本より圧倒的に歴史が古いだけあって、遺跡も潤沢にあります。
・私が住んでいた首都テヘランは緯度36度前後ですから日本で云えばほぼ東京です。但し海抜1200~1500メートルもあって、四季もあり雪も降る比較的過ごしやすい街です。
・遺跡で云えば、ペルセポリス(日本で云えば奈良に当ります)、イスファハン(京都)、ヤズド(ここにはイスラム以前のゾロアスター教時代の「鳥葬」の跡の山があります)、など多く、私はそのすべてに一人或いは数名の知人たちと行きました。
・一番南のバンダルアバスには温泉もありましたし、一番北側のタブリーズではその北側のアルメニア(当時はソ連邦の一部でした)ものぞけました。
○イランの食べ物と飲み物:
・イスラム革命の最中でしたからアルコールはご法度でしたが、それでもブドウの産地としてのワインや一種の焼酎もヤミでは買えました。
・キャバブやパンにはいろいろな種類がありました。牛乳を醗酵させたドゥークという飲み物は美味しかったし、「チェロキャバブ」というご飯ものは特に美味でした。ご飯に生卵をかけて食べるのは日本人以外にもいるのです。果物も豊富でした。特に有名なのは細長いスイカとザクロがありました。現在の首都圏にもイラン料理のお店はあります。
○イランの文物:
・イランの文物について語る資格はありませんが、唯一イランの暦は世界一科学的です。
・1年が春分の日で始まり翌年の春分の日で終わる。1ヶ月の長さも30日と31日だけ(30日*7+31*5=365日;閏年は30*6+31*6=366日)です。私たちが現在使っているグレゴリー歴で、天文学上何故あの日が元日で、何故31日の月があるのに28日の月もあるのか合理的な説明はできません。
○その他にも思い出すことはいくらでもありますがこの辺で。
・昭和の終わり:私の40代後半の3年間をイランで勤務したことは、私にとってかけがえのない経験です。
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