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「嘘つき」について
                                                      
                                                2016 6 -13       
記 若山 昭


辞任表明を受けて、舛添問題は幕が降ろされたかに見える。都民ではないからどうでもいい話であるが、

一連の報道を見ていて違和感があった。それは「嘘つき」という言葉が一度も出てこない事態に対してであ

る。これに代わる言葉が「説明責任」である。なぜ、嘘つきという言葉を使わないのか。ホテルで会談した

相手の名前を明かさない。招待した団体の名前を明かさない。それらすべてが政治家の信義の問題とされて

しまっている。


 マスコミでは嘘とは事実と異なることを表明することなのであろう。事実が出てこないから嘘とは言えな

い。しかし、一般常識としては黙っていることも嘘つきである。名前を明かせば嘘がバレてしまう。嘘がバ

レれば法律問題になってしまう。だから明かさない。これを嘘つきと呼ばずしてなんというのだろう。



 「嘘つき」は人間として致命的な悪口である。人間失格と言っているようなものだ。だからこそ、子供で

さえ嘘つき呼ばわりをされれば、必死に事実を説明し、それが嘘ではないことを証明しようとする。


 舛添氏は都議会の中で、共産党議員の質問に、ホテルの領収書の再発行については休憩時間でも早いうち

に要求すると皆の前で明言した。再発行を要求したのかどうか、これは辞職した、しないにかかわらず追及

すべきだろう。要求していないのであれば、まさにその場のがれの「嘘つき」でしかない。いるかいないか

分りもしない会談相手を探すよりこれをフォローすべきであろう。この領収書再発行の件は都議会が最初で

はない。記者会見の中でもすでに上がっており、取り寄せると話していたことである。こんなことがまかり

通るとすれば、日本は必ず崩れていく。