ところざわ倶楽部         投稿作品   エッセイ&オピニオン

共有する友が探せぬ虚しい昭和の思い出だが・・・
                                                      
                                            2016 08 -08   
記 髙橋俊彦
                                 (歴史散策クラブ)


 
昭和26年3月 柏崎第一中学校を新制中学第4回目の卒業生として、3年間クラス替えなしの1組女子30

名男子31名 計61名が卒業した。現在は関東地区居住の卒業生、男女7名初夏物語(紫陽会)を継続中で、

毎年1回風薫る5月 当時の忘れ物を掘り起こしては、泣き笑いを繰り返している。

 岩国国民学校4年生の春、片隅には円錐濠のある校庭に、全校生徒が整列して始まる朝礼の最中、警戒警報発

令で見上げる青空に、岩国航空隊の迎撃機では到底到達不可能の高度、遥か上空を、幽かな飛行機雲を引き乍ら

、南から北へ悠然と飛行する銀色に光る機体を、何度かは目にしていた。


 昭和20年5月10日 岩國陸軍燃料廠は、B29・112機による絨毯爆撃で、多勢の死傷者を出した上に、

昼夜兼行で急いだ、蒸留装置ほか諸設備の完成を目前にして、炎上壊滅したままで終戦を迎えた。




錦帯橋

 

 当日の朝、空襲警報発令で自宅待機。いつもとは逆に、北から南へとB29の大編隊が、超低空飛行してきた

。表へ出て見上げると、胴体中程を開き、次々にぽっと微かな音と共に投下される、真黒な爆弾が目に入った。

 市街地から10キロ先の燃料廠への攻撃とは、遥か東方に黒煙が立ち上り、周囲の大騒動でそれと判明した。

父は、毎日自宅から10キロの道程を自転車で、早朝出勤深夜帰宅を繰り返していたから、状況確認に出向いた

隣組の諸氏との面識はなく、生存者情報の対象外であった為、4日後本人帰宅時迄、生死不明のままであり、家

族全員神前・仏前に無事を祈り、心落ち着かぬ時間に耐えていた。


 昭和20年5月下旬、残務整理の父を残して、母は女手一つで祖父母・12歳を筆頭に乳呑児迄 計6名を連れ

、岩国を離れた。途中真夜中、神戸近辺であったと思われるが、焼夷弾投下で焼け広がった真っ赤な火の手を背

景に、橋の上を左右に走り渡る姿が、影絵のように黒く浮出して見えたり、最寄駅停車中の車内へ、殆どが身一

つで乗り込んで来る大勢の被災者を見乍ら、規制による緊急停車を繰返す牛歩の鈍行で、山陽・東海道・北陸・

信越本線と乗り継ぎ、2日がかりで故郷柏崎へと辿り着いた。


 陸軍が燃料廠の新設に際し、原油蒸留を日石方式採用。その設立準備段階から、父は陸軍技手として、東京後

楽園球場右翼外野席後方にあった、水道橋陸軍造兵廠跡再利用の準備室で、計画段取り策定に参加し、着手施工

の段階から岩国陸軍燃料廠へと転勤した。


 陸軍燃料廠の創設からその終焉まで約6年間。広島・長崎原爆被弾、大日本帝国崩壊は3か月後、昭和14年

5月 一家8名で上京、当初上板橋3丁目に居住、崖上にある長命寺の鐘撞堂を見上げた2階建ての住いから、

一面麦畑の先 朝日湯の高い煙突の横に、折々見えた富士山が印象に残る、野方町1丁目へと転居した。

 昭和15年4月 野方幼稚園入園。上京に際して、母方親戚の医者から、命の保証はできない虚弱児と言われ

た母は、春になっても柏崎当時と同じにメリヤス厚手の股引に半ズボン、毛糸のセーター重ね着で出歩かせたか

ら、都会では先ずお目に掛かれぬ、珍妙なスタイルのあんなへんな子と近所の子供たちの笑いものになる。

 村山貯水池へ遠足の際、帰宅後、親に報告し参加か不参加か回答を貰ってきなさいを聞き漏らし、翌日回答出

来ず、帰って聞いて来ると泣き出し保母さん同伴で帰宅、「僕はすぐ涙が出るのでねえ先生」と言っていたと笑

い乍ら母に報告(告げ口?)された。


 遠足当日階段を転げ落ち背中強打、湿布薬ヒシチオールを貼ってそれでも参加。朝の体操で近所に響き渡る大

きな声の元校長先生。

 当時出来たての隣組役員から、西武線の線路敷に入り込み電車進行を妨害したとの叱責、回覧板の特記事項。

 当時の上板橋3丁目・野方町1丁目の元住居や麦畑は、環七に飲み込まれ朝日湯はマンションに変わり・幼稚

園は偲ぶ縁なし。

 昭和16年8月 岩国市東登富町へ父に連れられ転居。岩国染香幼稚園へ転入。

 昭和17年4月 岩国国民学校入学。校訓は、感恩報謝・質実剛健。教育奨励事項は、通年神社日参・冷水浴

冷水摩擦・寒中足袋ナシ・日誌記載の5項目で、毎年紀元節祝賀の式典の後、該当者に表彰状授与。校長先生自

ら、毎月初に各教室巡回の上、清潔だけではなくピカピカに磨き上げられているかを廊下も含め評価し、ヨシと

した教室には、廊下側の柱に校長自筆の『心光れば床光る』の標語を貼付する。米英鬼畜・一億一心火の玉だ・

欲しがりません勝つまでは・・・で教育された銃後を守る軍国少年の一人であった。

 入学当初から学級集合写真1枚も無し。転校に際して校門横の登・下校時に奉拝する奉安殿前に整列、級友代

表が歌ってくれた加藤隼戦闘隊が送別歌。出来事の裏付けに出来るものはたった一つ、1年入学から2学期まで

の担任で、呼称は不確かであるが、満州への移住開拓団の教育部門準備の為転勤された、廣中八千代先生から頂

いた手紙によるものだけである。



 「高橋さん

   お手紙うれしく拜見いたしました。本當によくやってくれましたね。俊彦さんからお手紙をいただく

  前に校長先生が大へんおよろこびになって、そのことを知らせて下さいましたので、先生は僕の研究を

  讀んでいるとなんだかおへやが急に廣くなりみんなの顔が浮かんで何時のまにか岩國の講堂になりました。

  前の高いだんでは僕がぢぃっとみんなの方をにらんで大きいこえでお話をしているすがたがはっきりうかん

  でなかなかきえ(消)ませんでした。先生が急にこちらへ來ることになって、ちっともおせはができなかっ

  たので、毎日神樣においのりして心ぱいしました。でも、大ぜいのおかあ樣がたの前でほんとうによくやり

  ました。


   これに力をえて、これからは何でもみなおやりなさい。きっとできます。三組のみんなはおとなしいでせ

  うか毎日きをつけて下さいね。みんなが心を一つにしてなかよくけっして三組の子どもは、けんくわなどし

  ないやうに見つけたらすぐとめて下さいよ。それからあそび時間に堀田さん星浦さん安原さん川原さんをよ

  んでこっそり先生がおとなしくしっかりべんきょうしなさいといったとおつたへ下さい。このつぎの日曜日

  にはいそがしくなければ岩國へかへって學校にもよりみんなの家の前も通ってどのくらゐよい子になったか
 
  を見たいとおもってゐます。學校の水仙は咲きましたか。兵たいごっこのおゆうぎをならひましたか。カタ

  カタパンポンおもしろいですね。カレンダーもりっぱに出來たことでせうこれからも時々學校のお話をきか

  せて下さいね。つるのやうにくびを長くしてまってゐます。まだまだ寒い時ですから風を引かないやうにな

  さいよ。お家のおぢい樣お父樣お母樣によろしくおつたへください。先生は大へん元氣で昨日は九里もはし

  りました。支那のおべんきょうもよその國のおべんきょうもみんなとおなじ國民學校のこともはりきってし

  て居ますから。では又お話いたしませう。
  

  さやうなら。
  昭和18年1月25日(かな遣い原文のまま)」

 帰柏後取敢えず、母方親戚の病院の入院患者用病室3部屋に旅の荷を解いて、身辺整理に数日を要した。

 昭和20年6月初旬、岩国を後にして10日以上過ぎた後に、柏崎国民学校4年1組に編入。



柏崎国民学校


 終戦の日を挟んだ一時期だったが、既に利用目的をなくして、空家であった満州開拓寮を、賃借していた。

 終戦までの約2ヶ月の間に、道路対面の豪邸が強制疎開で取り壊された、長岡市の空爆を浦浜で眺めた、と平

和の御代となるまで、将に虚しさ6年の打止め、と同時に語り合える友を得た最初の出来事であった。


 10年以上も前の紫陽会の席上、中学校大門通りの、満蒙開拓団の寮であった家に住んでいた、近所には貴女

(お前さん)も住んでいたんだよね、と話していた。


 平成28年5月14日 今年の紫陽会の集いで、『満州柏崎村の記憶』と題した冊子を、元住んでいた所に関

係があるんだから、と上記の貴女から手渡された。ほんの暫くの店子だったのに、共有出来る思い出があるから

、と忘れずにいてくれた好意。これは廣中先生が大陸へ行ってしまわれたのだった、と七十有余年も前の思い出

に繋がったことでもあり、この手紙の大切さを改めて思い知らされる出来事であった。



 前述昭和の戦時中6年余りの出来事は、共有する友など探さず、一人静かに胸中深く留め置くを良しと

しよう。