2016 12 -13 記 松岡 幸雄
私は蒸気機関車の写真を見ると、なぜか遠い昔の子どもの頃を想い出します。
当クラブHPの「写真&デザイン」欄にある仲山富夫様の№174「D51が小手指公園駅に停車
していた」に触れて、私の心が釘づけにされました。早速、我が家から自転車に乗って見に行き、D
51の運転席に座り、錆びついた車体に触れながらあれこれと感じてきました。
★ 北海道の開拓の先駆「車」として
私は北海道生まれですが、この機関車は、私の年齢より3歳年長で、神戸市で製造・誕生してすぐ
に遠く離れた「北の大地」まで運ばれて、その一生のすべてを北海道民の生活とその発展のために尽
くしてくれただけに、「頑張ったね、お疲れ様でした。ありがとう」と心を込めて言ってあげたい気
持ちになりました。
北海道の中央部の岩見沢機関区に配属されたのを振り出しに、十勝地方の新得・山岳が多い富良野
・再び岩見沢に戻った後、オホーツク海に近い厳寒の遠軽・南部の追分機関区で急坂の多い夕張線を
最後に、昭和51年38年間の過酷な激務を終えて引退しました。走行距離がなんと地球6周分とのこ
とで、北海道開拓100年の歴史の基盤を築いた「功労車」です。
(写真撮影 仲山富夫氏) |
★ 汽車の運転手にあこがれて
この機関車は、間違いなく私とは何度も会っていました。石炭・木材・砂利などの貨物車を引いて
いる時や、お客を乗せた客車を引いていた時など必ず見ていましたので、まさに「私と同期生」です
。私の生まれた町は室蘭本線の岩見沢と追分との中間点にある由仁町で、我が家の居間から1・5k
mほど先の列車はいつも目に入りますし、小学校に通う時も線路を横断します。だいたいの時刻が分
かりました。
更に、300mほど先の我が家の畑の真中を引き込み線が通っていて、近くの夕張川から採った砂
利を貨車で運び出していました。ですので、いつもの生活の中に機関車があり、近くで手を振る私に
運転手も応えてくれるのがうれしかったし「将来の夢は汽車の運転手」と思っていました。「懸命に
働く力強さ・逞しさの代表格」として強烈な印象を持っています、今でも。
★ 農家のけん引役は「愛馬」でした
子ども心にも「懸命に働く力強さ・逞しさの代表格」として身近にいた動物は、犬・猫・綿羊も飼
っていましたが、なんといっても「馬」でした。
耕耘機がない時代で、畑作農家にとっては、我が家の納屋で飼っていた馬は、家族以上にとても大
事にして気を遣っていました。私が家から約1km先の沼まで、夏草を腹一杯食べさせるために裸馬
の背に乗って連れて行ったり、餌を与え馬小屋の糞尿の掃除をしたり、小学生の私の指示を素直に聞
き入れてくれるので、馬の大きな顔にいつも頬ずりをしていました。とってもやさしく可愛かった。
しかし大変な重労働の仕事を直に見ていて、とても可哀想にも思いました。立派な毛並みに筋肉は隆
々としていてとても逞しい家族の一員で、我が家を支えてくれた「功労者」でした。
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所沢市内にある小手指公園内で「余生」を送っている、愛おしくも逞しい、あのD51の雄姿をぜ
ひ見てやってほしいと思います。
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