10月上旬、私は、1年ぶりに江東区東雲にある、東京電力福島第一原子力発電所の事故により避難されている方々を訪ねてきました。今回で7度目です。
「東雲の会」からの「礼状」に、胸がいっぱい
今年の3月、会の代表・副代表・役員一同の名で、とても丁寧な礼状が届きました。「・・・事故から8年が経過しました。避難当初は戸惑うことが多かった私たちですが、皆様のお力添えにより、ふるさとへの帰還や他所への転居など、多くの避難者が東雲住宅を離れ、新しいステージでの生活をスタートさせております。・・・3月をもちまして東雲の会の活動を終了することといたしました。・・・これまでのご支援・ご協力に、あらためまして、心から深く感謝申し上げ、以上ご報告させていただきます。ありがとうございました。」
この避難所は、今年の3月末で「8年間」避難していた方々がここから「退去」していきました。福島第一原子力発電所の近くの区域が、「帰還困難区域」で「避難指示区域」とされていたのが、最近「解除」されたためです。この避難所を出て行かれた方々はどこに転居されたのでしょうか? 今後、健康にはくれぐれも気をつけられ、前向きな生活をされますよう心から願っています。
「苦渋の決断」に耐えながら
私がこれまで電話連絡を取り合っていた方は、持病の通院治療のため、8年間通い慣れた近くの病院から離れられなくて、江東区内のこの避難所に近いところに引っ越す「決断」をされました。
私には、故郷の南相馬の様子をとても具体的に懐かしさを込めながら沢山のことを話してくれました。「望郷の強い気持ち」を抑えながらの「選択」だったようです。
ここの避難所から転居された一人ひとりには、「これまでのコミュニティー」を捨てる苦しみを乗り越え、そして耐えながら、全国各地に散って行かれたことが手に取るように解ります。避難してから8年たって、またこうした辛くてやるせない想いを胸にした「心の復興」は、決して消えない、と思います。
今も、まだ360人が・・・
この避難所には、8年前の当初最も多かった時は、約1、300人の方が入居されていましたが、年々徐々に減って今は、180世帯360人の方が居られます。来年3月には南相馬市・浪江町・富岡町の方々が期限を迎え、その先1年後までは双葉町・大熊町の方々はここに居られる、との事のようです。
私とこれまで何回も話した50代くらいの男性の方が、心の内を話してくれました。「ここは立派な高層マンションで『天国でした』が、ここを出てからが『本当の避難者としての大変さが待っている』のです。その中に入っていくことになるんだから」と。その表情はキリっとしてとても真剣な目で話してくれ、胸に迫る思いでした。 (№39につづく)
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「追伸」
9月中旬、東京地裁で、東電第一原発事故をめぐり、東電旧経営陣3人に「業務上過失致死傷罪」の判決があり、「巨大津波は予見できなかった」として無罪を言い渡しました。福島県の新聞社の一面トップでは「無罪」の字が巨大なほどの大きさで報じていました。
このことについての避難者の感想は、とても聞ける雰囲気ではありませんでした。識者の論調で目に留まったのは、今の刑事司法で、過失の場合、具体的な危険の予測が要件で、立証のハードルが高く、司法の限界だと。企業などを罰する「組織罰の創設」が急務と考えさせられました。
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もう一度、この歌詞を、しっかり噛みしめてみたい。
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復興支援ソング 「花は咲く」
真っ白な雪道に 春風薫る
私は懐かしい あの町を思い出す
叶えたい夢もあった 変わりたい自分もいた
いまはただ懐かしい あの人を思い出す
誰かの歌が聞こえる 誰かを励ましている
誰かの笑顔が見える 悲しみの向こう側に
花は 花は 花は咲く いつか生まれる君に
花は 花は 花は咲く 私は何を残しただろう
(この歌詞は続きます)
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