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        牛と私

                        2020-2-13 記 岡本 詔一郎

   

 父親から「牛を繋いでいる綱を持ってくれ。」と言われ、牛には頭に大きな角があり、恐ろしかった、かれこれ50年以上前のことである。 私の家は大分県宇佐市の駅館川近くで、親父は勤めていたが農業をしていたので、小さいころから家畜がいた。 小学校から帰ると遊びに行く前に、牛や山羊の餌にする草刈に行くのが日課だった。 冬は草が無くて苦労した。 しかし、陽だまりには冬でも草が生えていた。 今と違って、村が草一つ無いほど綺麗であったのは、家畜の餌にするため皆が草を刈っていたためでもある。 最近、藁を見かけなくなった。 牛の餌は藁を小さく切った物が主なものだった。 牛の餌をやるのは私の仕事で、その藁切りを使っている時、よく藁を切らずに、藁を握っている左手の人指し指を切ったものである。 一度は切り落としそうになったことも。今でもその人差し指は、爪が割れていて、小さな切り傷は無数に残っている。

 我が家には、牛を1頭農耕用に飼っていたが、子供が毎年生まれ、子牛の世話は私の役目だった。 親牛を洗うため河原に連れて行く時、生まれたばかりの子牛は、親の周りを飛び跳ね楽しそうにしていた。 しかし、人家の庭の畑を蹴散らかし、そこから追い出すのは大変だった。それは自分の役目で、時々居なくなって心配していると、どこからか戻って親牛の傍に! 人の子と同じように、常に視界から離れないようにしていたのであろう。 小学校高学年に成ったころ、子牛を運動に良く連れ出したが、ある時、畑の土手の傍を歩かせていて、面白半分に飛び乗ったら、急に走り出し、振り落とされて痛い目にあった。

 牛の他にも、山羊、豚、羊等、鶏は勿論、いろいろ飼っていた。そのころの自分の栄養源は山羊の乳だった。 自分が刈ってきた草を与え、自分で乳を搾って・・ 山羊の乳首は特別大きく、掴めないほどだった。 豚は子豚が多く生まれて、親の乳首が足りない子豚がいて、その子は成長が遅く、小さいので可愛そうだった。 元気のいいのを自分が掴み上げて退けてやり、小さな子豚に乳を飲ませてやったものである。 一度は、親豚が便所に落ちて、皆で担ぎ出したことも! 羊は毛を刈る時に抑えているが、動き回り大きなバリカンで刈るのは大変だった。 毛は煮た後洗い、それから紡ぎ、最後は糸にまでしていた。 その糸で母親がセーターを編んでくれ、私は正真正銘の“純毛”のセーターを着ていた。 純毛は、当時は貴重時代だったのだと思う。 また、ビロードの余り布で、お袋の作った手作りの学生帽を被らされ、自分だけ形の違う帽子なので、恥ずかしかった。 しかし、「買ったのが良い~」と言い出せなかったので、6年間被って学校に通った。 最初はぶかぶかなので新聞紙を折って入れていた記憶がある。 今では、その帽子やセーターが懐かしいが、どこに行っているやら!

 牛に話を戻すと、当時の農耕は、牛か馬を使っており、我が家は牛だった。馬は早く、牛は遅いが力があった。 私は長男であり、父親は私を先生にして農業を継がせようと思っていたと見えて、農業のことは何でも仕込まれ、させられた。 小学校6年の時に、1反7畝(1700㎡)の田んぼを、自分一人で牛を使って鋤き、畑に水を入れ、その後畦を作り、さらに、また牛使い、田んぼを掻き馴らし、田植えが出来るまでに、一人でやり遂げた記憶がある。 そこまでやれるように仕込まれていた。 また、同じころ、親父から小学校6年の時「今度定年で帰ってくる人がいるので、牛を使っての鋤き方を教えてやってくれ。」と頼まれ、鋤の担ぎ方から、牛を左右に行かせる方法(右はセオ、左はハシと指示。)等まで、実地に畑で教えたこともある。 今では、私がその人の年齢に、10以上、上かも!  そんな私であったが不思議なもので、宇佐の家は当時農業に関心が無かった弟が地元で教師をしていたこともあり、継ぐ羽目になった。 その弟も今は亡くなって、弟の嫁が家を大事に守ってくれている。 しかし、長男として生まれ、当然自分が家を継ぐものと思って育った身としては、今の境遇は“根無し草!”と写り、 私としては何となく寂しい思いでいる。

 こんなことも有った。 牛の種付けは、当時は種牛を家まで運んで、牛小屋でやらせていた。 そのころ父親は勤めていたので、私がそれに立ち会うように、言い付けられ嫌だった。 しかし、何年かしてからは、人口受精に変わった。この立会いも自分に! 大きな2つに開くパイプを半分に来たような物を、あすこに挿し込み、その中に精子の入ったガラス管を!子供には目の毒だった。 母親が何時だったか「詔ちゃんは良くぐれなかったわね。」と言っていた。 そのことを気にしていたのかもしれない。 人口受精も牛から始まったが、今では人にもポピュラーにする時代に、 更に進んで細胞からも出来る時代になろうとしている。 「科学が進みすぎるのは如何なものかな!」と思う。

 最近、中国と韓国に2度にわたって行く機会が! 牛を使った農耕を見るのを楽しみにしていたが、残念ながら見ることは出来なかった。 韓国では石の博物館に行ったおりに、牛に馬車を引かせている実物大の模型に接し、子供のころを思い出し感慨一入だった。

 また、一昨日は陶芸仲間の上野さんから紹介された「博物館と学校の連携」をテーマーにした講演会に参加。 その折、懇親会場で突然挨拶された人が、「牛の博物館」の兼松重任館長さんで、子供のころの牛に思いが行き、話に花が咲いた。 そんなこともあり、牛について、雑文を書くことになった。