子供のころ、古い黒光りのする大きな階段を登って、屋根裏部屋で色んなものを見るのが楽しみだった。後で分かったことだったが、酒が飲めない親父が濁り酒(通称どぶろく)を作るため甕?を保管しているのに気付いた。
お爺ちゃんが読んだのか?大きな行李に本が一杯入っており、読んだことも!今でもその一部が忘れられないで思い出す。「・・・椅子に座ると何か変、椅子の中に人が潜んでいるのでは・・・」こんな小説はその後記憶にない。その屋根裏は小窓が一か所あるだけだった。電気が点いていたかは定かではない。
自分は長男として育てられ、家を継ぐものと思っていた。お前は学校の先生になり、家を取り、農作業をやりながら、家を継いで行け!と生まれた時から言われ続けていた。親父にとって、一番残念だったことは長男が幼い時に亡くしたこと。よく言われていた、「あいつは利口だった!6歳のころ、前の店に買い物に行かせるとちゃんと買って来ていた。」口癖だった。兄貴の後は二人続けて女。兄貴が亡くなった時は男の子が居なくなっていた。自分に言わなければ良いのに、お前より利口だった!と言わんばかり。
そんな自分が、家から出る羽目に!学校の先生になるため、大学目指し、学芸大学へ そう決め込んでいた。ところが、近所に防衛大学校に行った方がおり、話を聞いたと見えて、「お前も学費がいらないから、試しに受けたら」と言われ、受けてしまった。そうしたら、運悪く受かってしまった。一般大学試験の前に発表があり、行くとこが出来、勉強に実もいらず、九大に落選。2次校は、学芸部がある山口大学だったが、親父がもう受けなくても良いのでは!と言われ、受けないまま。そこで先生になることは消えてしまった。
その結果、先生になることも、家を取ることもなく終わった。弟が先生になり、家を継いでしまった。なんとなく、根無し草になった気がした人生だった。姉たちからは「一から自分の家をしっかり作って行けば良いじゃない。」と言われもした。しかし、・・・ そんな矢先に、弟が病気で亡くなっており、弟の嫁さんから、「兄さん、生活し辛いから家を建て替えています。」半分壊した写真が一枚送られて来た。愕然とした!
屋根裏が無くなった。自分の命の一部が欠けたような気持になり、生きた心地がしなかった。第2弾の手紙には「兄さんには目の毒だから、もう壊している写真は送りません。」と有った。助かった!しかし、長い間、気分が優れなかったような気がする。
今では、法事や同窓会等、機会あるごとに帰り、新しい家に泊めていただき、有難いと思っている。弟嫁の判断が正しかったと今にして思う。実家の近くは面影も無いくらい様変わりし、子供のころ有った家は一軒しかないあり様、寂しい限りである。
ところざわの家も35年以上になり、自分もそろそろ! 自分の子供は家に対してどんな気持ちを持つだろうか?知る由もない。この一文を孫が見るとどう思うだろうか?全く理解出来ないかも!ここまで書いて、少し気が晴れたような気もする。
この家は誰が住むのか?売られる羽目になるか?苦労して買った家でもあり、自分が生活するうえでは最高だった。しかし、自分と同じように古くなっている。
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