ところざわ倶楽部          投稿作品       エッセイ&オピニオン

 ≪一寸庵閑話≫  
         
続・音楽こぼれ話」

     岩城宏之・著『フィルハーモニーの風景』
 
 
    
                                                      
2021 -2-20  記 ケン・シェイクスビア   

 

♪私は日本人で一番好きな指揮者は岩城宏之です。彼については、投稿421『音楽こぼれ話』、356『ビールとクラシック』でも書きましたが、指揮者だけでなく『エッセイスト』としてもすぐれた才能を示しています。

世界で一番うまいビールはチェコのビール!と岩城は開高健とともに喝破しています。私もプラハ空港で搭乗までチェコビールを飲んでいたことがあり、『チェコビールはうまい!!』と思います。


♪1951年 東京芸大タイコ科(岩城は打楽器科と書かず自嘲気味にこう書いています)の1年生は岩城と白木秀雄の2人でした。白木はすでに有名人であり1年生の途中で退学したそうです。

 1年下の後輩・作曲科の山本直純との出会いは、岩城の『森のうた』(朝日新聞社刊)に書かれています。彼の父親は戦前の有名な作曲家で英才教育を受けた直純は、すぐれた『耳』をもっていましたが、岩城に『ヨーヨー!』と横柄な口ぶりと態度でした。しかし、すぐに2人は親しい『悪友』になります。同級の作曲科に尾高尚忠の1番の愛弟子で有名な林光がいて、『尾高の未完の遺作を18歳の林光が完成』と朝日新聞に載ります。林光の原宿の家に岩城や直純らは集まりよく騒いだとか。

 私は学生時代、林光の『原民喜の詩による原爆小景から 水ヲ下サイ』を歌いました。YOU TUBEで聴けます。

      
     若き日の岩城(左) 山本(右)       フィルハーモニーの風景           



♪岩城は近衛交響楽団のティンパニー奏者のバイトでかなり稼ぎます。専門以外に副科として米国帰りの渡邊暁雄教授の新指揮科が新設され、岩城、山本は試験に合格、一緒に指揮を勉強します。2人は学内オーケストラを組織してショスタコーヴィチの『森のうた』などの指揮を代わる代わるやったり、N響の演奏会を『もぐり』で聴いたり・・・。岩城は芸大4年のときN饗の指揮研究員になり、2年後の1956年に日比谷公会堂でN饗を指揮してデビューし、以後50年間指揮棒を振るのです。

 1977年2月岩城はウイーンフィルから病気のハイティンクのピンチヒッターで指揮を頼まれ、この機会を逃すまいと東京文化会館での演奏会を終え、タクシーで羽田へ。当時、国際線は羽田発着でした。午後10時半発のJALでアンカレッジ経由ハンブルグ、そこからチャーターした小型ジェット機でウイーンへ。演奏会の練習に入ったそうです。そして日本人初のウイーンフィルの指揮者となりました。


♪カラヤンは少年時代、300キロの道を自転車でバイロイト音楽祭のトスカニーニの演奏会に駆けつけました。
トスカニーニは癇癪もちで怖く厳しかったそうです。またフルトヴェングラーはカラヤンが好きでなかったようで、中堅のカラヤンをベルリンフィル、ウイーンフィルから閉め出したとか。

 岩城は1度だけカラヤンの指導を『交響曲英雄』で受け、『ドライブするな。オーケストラをキャリーしなさい』とアドバイスを受けたそうです。


♪私が初めてオーケストラの演奏を聴いたのは、小学校5年の夏、おふくろに連れられて日比谷の野外音楽堂で、上田仁の指揮・東京交響楽団の『ベートーベンの田園』と『メンデルスゾーンのバイオリン協奏曲』でした。

 1988年2月に、まだドイツ統一前の東ベルリンのベルリンフィルハーモニーホール(1963年にカラヤンの指揮でこけら落とし。2440席)でベルリンフィルを聴いて感動した思い出が懐かしいです。                                  
                                    (完)