大河ドラマ『青天を衝け』
今年のNHK大河ドラマは、渋沢栄一を描く『青天を衝け』です。
去る8月22日の放送は、栄一のパリからの帰国や1868年5月23日 反政府の振武軍に参加した養子・平九郎が飯能の能仁寺を追われ、顔振峠を経て、越生黒山村において21歳で自害するシーンがありました。今年の大河ドラマは無駄な残酷なシーンや、学芸会まがいの演技が印象的です。曹洞宗の能仁寺は昨年「さんさん会」の行事で行きましたが。天覧山をバックに立派な庭がよかったです。
能仁寺庭園 |
『日本資本主義の父』渋沢栄一
設立・関係した企業500社、公共・社会事業600という子爵・渋沢栄一(1840~1931)は『日本資本主義の父』といわれますが、渋沢は一度も『資本主義』とはいわず、『合本主義』と表現しています。『近代日本経済の父』。あるいは『近代日本の設計者』といった方がよいかもしれません。
『合本主義』は『公益』を追求するためにお金、モノ、人、情報、知恵など本(資本)を集めて経済活動をするというものです。
渋沢栄一 |
城山三郎『雄気堂々』
私の好きな城山三郎に渋沢栄一の半生を描く『雄気堂々』があります。昔読んだものを本棚の隅から引っ張り出して読みました。3年前、大河ドラマ『西郷どん』でも思ったのですが(HP316参照)、『時代考証』に大石学、磯田道史という錚々たるメンバーを有しながら、『幼少の西郷と島津斉彬のご対面』というあり得ないシーンを放送しました。また脚本の中園ミホの推薦で岩倉具視に笑福亭鶴瓶を起用。私はここで大河ドラマの視聴をやめました。『アホクサ!』です。視聴率が歴代ワーストスリーだったとか。NHK大河ドラマの『限界』でしょうか。『青天を衝け』と、歴史資料を大量に読み込んで書く城山三郎や司馬遼太郎の作品の重荷の違いが、ドラマの後半に露呈するかなと思っています。
『唱義死節』の碑
城山は特攻隊を書くために知覧を訪れ、特攻隊員たちが最後の宴の夜、柱につけた刀キズを撫でながら嗚咽します。彼自身、海軍特別幹部練習生として特攻隊に配属中に終戦を迎えています。
『雄気堂々』で城山は平九郎が割腹自刃した現地を2回訪ねます。海抜500メートルの顔振峠の急峻な上り下り、城山は『私の歩いた数倍の距離を、平九郎は早朝から空腹のまま、数時間の戦闘を終えた身でたどっている。若いとはいえ、精根尽き果てていたことが、想像される』と書きます。碑には『唱義死節 義を唱え節に死す』とあります。後に栄一は平九郎ら反政府の振武軍を『軽率に失した』『思慮の念を欠いた』と批判しますが、城山はいうだけでは説明がつかぬものがあると書いています。
1878年 屋形船事件
三菱の創業者・岩崎弥太郎は大隈重信に取り入るとともに、西南戦争で業績を急拡大しました。1878年、渋沢栄一を隅田川の屋形船に招いて、二人協力して海運業界を独占しようと持ちかけます。渋沢は独占ではなく競争こそが成長、発展には必要だといって断ります。そして三井、住友、大倉と一緒に三菱に対抗して新しい船会社を設立します。この両社の熾烈な競争は共倒れの状況になり、明治政府が中に入って『日本郵船』の誕生で両社は妥協します。
渋沢は企業の存立意義という入り口にこだわり、岩崎は利益という出口で考えたが、両者とも企業は利益無くして存続できないという点では同じです。
築地梁山泊と渋沢
明治の初め、築地の大隈重信邸には、大隈、伊藤博文、井上馨、五代友厚、前島密、山県有朋、渋沢栄一ら30代の若者30~50人が度々集まっては『若い八百万の神が集まって新しい国を作るのだ』と酒を飲みながら熱く議論を戦わせていました。この『築地梁山泊』を大久保利通や木戸孝允は嫌っていたとか。明治の経済界で活躍した豪放磊落で大酒飲みの五代友厚(1836~1885)と君子然とした渋沢栄一が一緒に議論していたとは!明治の時代風潮が感じられます。
梁山泊は中国山東省にある天険の地。豪傑や野心家が集まったとか。宋の時代『水滸伝』で有名になりました。
五代友厚 |
礼を尽くす 渋沢栄一
渋沢は19歳で、従妹の尾高千代(18歳)と結婚しますが、千代はコレラのため42歳で亡くなります。翌1883年に伊藤兼子と再婚。お妾さんが3人、他に愛人が20人以上いたそうです。艶福家といわれますが、渋沢栄一という人間の別の側面が伺えますし、時代状況がそれを当然のように認めていたようです。
城山は『雄気堂々』の筆を渋沢夫人の死で置きます。『矢のように、風のように千代は逝った』と。発病して翌日の夕方のことでした。
渋沢はノーベル平和賞の候補に2回推薦されました。また女性参政権も主張しています。
渋沢は『生きるために知恵を出し合い、金を出し合い、力を出し合っていけないものか』と問い続けた人生でした。そして恩人である慶喜や一橋家への仕官を薦めてくれた平岡円四郎の遺族に対しても永く丁寧な礼を尽くした人生でもありました。栄一が愛した『雄気堂々、斗牛を貫く』から城山は小説の題をとったようです。
(完)
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