道路元標とは、道路の起終点を示す標識である。
所沢市内では大正時代に旧一町七か村に設置された。現在、いずこに残っているのであろうか。探索してみよう(『所沢ー魅力・不思議発見』さいたま民俗文化研究所・令和4年6月22日発行)、との文章が目に留まって、興味が湧いた。
「大正8年(1919)に公布された道路法施行令で、市町村単位での道路元標の設置が義務付けられた。現在、各地に残る元標は、大正9年以降に各市町村によって設置されたものである。形状・規格・材料などは、大きさは概略縦横25㎝・高さ63㎝の直方体で、頂部の左右は若干弧を描くように削る形で材質は花崗岩であった。
設置場所は概ね市町村役場の前に立てられた。
しかし、昭和28年(1953)に施行された町村合併促進法によって、旧町村が統合・合併したために道路元標はその存在意義が失われ、さらに旧町村自体が消滅したために、その管理義務も消失した。また同年には道路法も改正され元標の地位は単なる道路の付属物となった。そのため道路の拡張工事などの際に廃棄処分されてしまったものも多く、埼玉県での現存率は約40%である(ネットより抜粋)。」
さて、目的の所沢の道路元標を探索しに行きましょう。友人を誘ったが「興味がない」とのことで私一人である「そうだよなあ、役目を終えた昔の標識など見に行くかよなあ、でも私は観に行くのだ」。16年目の古車(愛のスカイライン)を飛ばした。
○富岡村の道路元標
県道6号川越・所沢線の下富交差点から西方へ50m、JAいるま野富岡の東隣に、道路より奥まった所に村役場跡がある。草に囲まれてひっそりと立っている。元標は縦横25㎝・高さは61㎝である。花崗岩の元標は62㎝の四方の台座に据えられ欠損はない。頂部の左右は弧を描くように削られていた。撫ぜてみると温かい、約100年前に立てられた標識だ。
村役場跡
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○三ヶ島村の道路元標
富岡村道路元標を後にして、車で約4キロの県道179号線の農協前の交差点に面したJAいるま野三ヶ島の入口、東側の歩道にあった。元標は縦横26㎝・地上の高さは59㎝で直接歩道に設置され標示はなんとか確認できた。歩道にあるためか、花崗岩は剥がれ碑面は荒れている。9月初の道路脇に立つ元標はさわると温かかった。
JAいるま野三ヶ島
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JAいるま野三ヶ島支店に入りトイレを拝借した。丁重にお礼を言って帰るつもりで事務所へ戻ると、事務所内には米袋が積まれていた。
今年もAランクと評価された埼玉の米『彩のきずな』が目に入った。一瞬戸惑って「2kg入りはありますか?」「取り寄せになりますが」「では、5㎏入りください」「孫に送ってやろう、喜ぶかな」
しばし待たされ、購買品送り状と書かれた大きな領収書をいただいた。税込み1,520円也。
普段は農業組合で購入する個人客はいないんだろうか。小脇に抱えていそいそと駐車場へ戻った。
○所澤町の道路元標
電車で所沢駅へ。プロぺ通りを抜けて直ぐ左側の柊南天の植え込みの中に在った。
縦横25㎝・地上の高さ65㎝の花崗岩である。表面左右に剥がれはあるが、所澤町元標と刻まれた文字の損傷はなかった。
県道337号道路沿いの対面に、トコトコスクエア(旧イオン)が建っている。
○松井村の道路元標
県道24号練馬・所沢線に沿って建設された松井小学校の正面前、向かって左脇にあった。花崗岩の縦横26㎝・地上の高さ70㎝、松井村道路元標と刻まれている。
ここは松井村役場の跡地である。
○小手指村の道路元標
小手指小学校の校庭の正門を入ると左側の奥に在った。付近に駐車できる場所がないので、学校へ電話を入れた。校庭内に駐車してください、とのことで門を開けて中へ駐車した。子供たちが校庭でにぎやかに声をだして飛び跳ねている。マスクは付けてない。
若い男の先生が出てこられた、挨拶をすませると「なにか調査されているのですか」と、聞かれた。咄嗟に「所沢のいろいろなことを知りたいと思っています」と、答えた。
もともと小手指村の元標は役場前にあったが、土地拡張等数回の工事により移され、現在地に保存された。縦横25㎝・地上の高さは44㎝と下部の元標の文字は土の中に埋まり確認できなかった。「やや右に傾いているようだ」
○今回参考にした文献によれば、残りの3ヶ村「柳瀬村・吾妻村・山口村」の道路元標については現在不明ということであった。したがって、今回の探索で1町4ヶ村の道路元標が確認できたことになった。
尚、各元標のサイズは文献に記載の数字を表記させていただいた。
約100年前の元標を目にして当時の町村を思い、うれしい気分になりました。
私は今後この内容について、「民話の会」で話題の一つに取り上げて会員の皆さんと学びながら現地散策をしたいと思いました。
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